この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

ヨハネ4章13~14節

イエス様が、一人のサマリアの女性を導かれたできごとです。

渇き
このサマリアの女性、彼女は、人生という荒野を旅して来た女性でした。そして、その中で、渇きを経験してきた女性でした。また、イエス様が、目の前に水がある。けれども、飲むことができないという渇きの中におられたように、この女性もまた、ここに自分の幸せがあると思う。でも、その幸せを自分のものとするすべがない。捕らえたと思うと、すり抜けてしまう。そんな蜃気楼のような経験を重ねて来た女性でした。

宗教的な求め
とともに第二に、彼女は、たいへん宗教的な人でした。信心深い人でした。このヤコブの井戸というのは、シカルの町からかなり離れた所にありました。1キロくらい離れていたのではないかという方もあるようです。そんな井戸まで、わざわざ水を汲みに来た。それは、人目を避けてということもあったかもしれません。けれども、やはりそれは、ヤコブの井戸という「ヤコブ」という名前に彼女はこだわったのでした。ヤコブ、彼は、後に、イスラエルと名前を変えられて、イスラエル民族の始祖となった人でした。神様の祝福を受け継ぐ者とされた人でした。そんなヤコブの祝福にあやかりたい。そのような願いが、祈りが、ヤコブの井戸まで水を汲みに来たということの中に表されていました。

神の訪れ
第三に、そんな彼女に、イエス・キリストというお方を通して、神様の方が近づいて来て下さった。そして、彼女が変えられたできごと。それが、このできごとでした。「わたしの魂があなたのうちに憩うまでは、わたしの魂は憩うことはないのです」と、アウグスティヌスは言いましたが、彼女がイエス様と出会って経験した経験、それはまさに、魂が満たされる経験でした。

サマリアの女性に、「水を飲ませてください」とおっしゃったイエス様は、この後、「渇く」と叫んで、十字架上で息を引き取られました。わたしたちも、このキリストの十字架の救いによって、新しい者、愛する者、仕える者としていただくことができるのです。

(前川隆一牧師)

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