コヘレト3:1~11

  50才でガンに冒されたある牧師は、訪ねてくれた友に「私はベッドに寝ているだけの生活だ。こんな状態をどう受けとめたらいいのかわからない。この意味を理解できるよう  助けてほしい」と吐露した。この牧師は自分のしたことに自分の存在価値があるという考え方を身につけていたのである。だから彼の希望は、かつてのような活動的な自分に戻ることだった。(実際には戻れなかった)   つまり彼の課題は価値観の修正だった。無力な存在としての生き方である。この二人はイエス・キリストの生涯が引き渡される前と後とで明確に2つに分けられることを確認した。  前は活動的な生活、後は他人のなすがままの生活だった。  自分で何とかしようとはせずに、すべて他人任せ、他人のなすがままだった。これこそ受難の意味するところだ。つまり、  他人のなすがままを引き受けるということである。   よく考えてみれば、私たちのすべての活動は受難に行きつく。子育ても恋愛も仕事も・・。私には3人の子があるが、昨年三番目の子が大学進学に伴い家を出た。過干渉ぎみの父親だったので、全員が巣立った後、自分の役割がなくなったように感じた。でもそれは、子供達が今後どう生きるのか、それを受けとめる側になったということなのだろう。あえて思い通りにしない愛、引き受ける愛がある。これこそ十字架のキリストが示された究極の愛であった。従って私たちは無力な存在になっても人を愛することができるのだ。                                                                                                   (大橋道也師)