人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」     マルコ1章27節
 

イエス様が、メシアとしての活動を開始され、会堂で教え始められた場面です。

おそれ
第一に、人々は、おそれということを経験しました。27節の「驚いて」ということばが、「おそれて」とも訳すことができることばです。人々は、イエス様におそれを覚えました。モーセの時代、人々は、神のみ声を直接聞くことをおそれました。そのために立てられたのが、モーセでした。同じように、イエス様のことばの力に触れたとき、人々はおそれを感じました。わたしたちにとっても、おそれをもって主を礼拝する。それが礼拝です。

言葉の力
第二のこと、人々は、イエス様のことばの力ということを体験しました。第一に、人々は、おそれたと言いました。それは、イエス様のことばの力に恐れたのでした。イエス様のことばには、その語られることがそのとおりになる力がありました(25)。これは、あの、神様が言葉でもって天地宇宙を創造されたということと対応しています。いや、天地創造より、もっと大きなわざがなされたとも言えます。それは、天地創造のときには、まだ、神様に逆らう力はなかったのです。それに対して、イエス様は、神様に逆らう力、抗う人格に対して、ことばを発し、それを追い出されたのでした。実は、今日の礼拝においても、同じことが起こるのです。みことばを通し、聖霊を通して、同じみわざを体験する。それが、礼拝のときなのです。洗礼を受けて、神の子とされたその状態に、言わば、リセットされる。それが、礼拝のときということです。

畏れ
第三のこと。第一に、おそれをもって主を礼拝する。それが礼拝であるということを言いました。おそれる。それは、恐怖の恐れではなく、畏れ敬う畏れをもって主を礼拝するよう招かれている。そのことを第三に覚えたいと思います。イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子とされ、神の子とされた者として、神様に信頼し、神様を畏れ敬うことができるのです。

(前川隆一牧師)