イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊たちにものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。                          マルコ1章34節
 

安息日の午後から、翌日の朝に至るまで、だいたい20時間くらいの間に起こったできごとが記されている箇所です。

主に仕えていただいて、仕える者となる
第一の区分、29~31節、イエス様が、シモン・ペトロの実家で、ペトロのしゅうとめをいやされたできごとです。ペトロのしゅうとめは、イエス様にいやしていただいて、もてなす者、仕える者となって行きました。ここで言われているのは、教会の指導者ではありません。イエス様の弟子たちでもありません。言わば、一般の信徒であるペトロのしゅうとめが、弟子たちが主に仕えるよりよりももっと早く、仕える者と、奉仕者となったというできごとです。主に仕えていただいて仕える。それこそが、「ただわが霊によって」という生き方です。

行為ではなく存在に焦点を当てる
第二のこと、32~34節、日が沈んで、人々が連れて来た病人や悪霊につかれている人たちを、イエス様がいやされたできごとです。その最後の部分ですが、イエス様は、「悪霊たちにものを言うことをお許しにならなかった」と言われています。どうして、イエス様は、「悪霊たちにものを言うことをお許しにならなかった」のでしょうか。それは、全人類の贖いのために十字架で死ぬというイエス様の最終の使命が妨げられないために、でした。このことは、さらに、こんな風にも言うことができます。イエス様は、自分が、何ができるかということではなく、自分がどんな存在であるかということにより価値を置いておられたということです。「主の霊によって」、それは、自分が、何ができるかということではなく、自分がどんな存在であるかということに焦点を合わせて行く生き方です。

主に聞き従う
第三のこと、イエス様の歩み、それは、祈りによって、父なる神様のみこころを聞き、それに従う歩みでした(38)。「主の霊によって」、それは、自分の願い、計画があって、そのために、神様を利用することではありません。みこころがどこにあるかを主に聞き、それに従う歩みであるのです。

(前川隆一牧師)