弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。                            マルコ9章8節

 イエス様の変貌のできごとです。

礼拝
 この変貌のできごとは、いろいろな意味で、礼拝ということと重なっています。第一に、ここにおいて、イエス様は、まったくの受け身でおられました。弟子たちもそうでした。イエス様の栄光の光を見た。イエス様の栄光の光に与った。それが弟子たちの経験でした。同じように、受け身で、神の恵みに与る。それが、わたしたちにとっての礼拝のときなのです。と言うことができます。礼拝、それは、わたしたちが神に奉仕するときではなく、神の奉仕を受けるとき、受け身になって、神様からの贈り物を受け取るときであるのです。

統合
第二に、弟子たちにとって、これは、特別な光景でした。できれば、ずっとこの場にとどまっていたい。そう思わせるようなすばらしい光景、できごとでした。エリヤ、それは、旧約聖書の預言者を代表する人物です。そして、モーセ、それは、律法を代表する人物です。その二人とともにイエス様が語り合っておられる。それは、これまで学んで来た聖書のメッセージがここで統合されるという経験でした。そして、その中心におられるのが、キリストであるという経験でした。同じように、礼拝、それは、これまで聞いて来た、また、学んで来た聖書のメッセージが統合されて行く経験ということができます。そして、その中心に、キリストがおられるということを発見して行く経験。それが、礼拝であるということができます。

ともにいて下さる主
第三のこと。「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(8)。そのイエス様がともにいて下さる。ともに歩んで下さる。そのイエス様がいっしょに山を下りて下さる。それが、弟子たちが経験したことでした。同じように、そのイエス様がともにいて下さる。ともに歩んで下さる。そのイエス様とともに、一週間の歩みへと送り出されて行く。それが、この礼拝ということです。

(前川隆一牧師)