それから、霊はイエスを荒野に送り出した。            マルコ1章12節

 

イエス様が、荒れ野において、サタンの試みに遭われたできごとです。

荒れ野

第一に、この「荒れ野」ということばに注目したいと思います。この荒れ野ということばですが、もともと、「捨てる」という動詞がもとになったことばです。ですから、荒れ野、それは、「捨てられた地」ということです。わたしたちも、自分がモノのように扱われる。また、自分自身をモノのように思ってしまう。そんな荒野を経験するのではないでしょうか。聖書は、それを、いのちの源である神様に背いた罪に原因がある。そう言っています(イザヤ書44章15節、詩編115編4~8編)。

第二のアダム

そんなわたしたちのために、自ら、荒れ野へと赴いて下さった。それが、イエス様であるということです。それが、今日覚えたい第二のことがらです。わたしたちの荒れ野の現実、それは、最初の人間であるアダムが、いのちの源である神様に背いてしまったことにまでさかのぼることができます。そのアダムが犯してしまった誤った選択をやり直すために来て下さった。それが、イエス・キリストでした(ローマ6章12節、15節)。

勝利

わたしたちは、荒野を経験します。そのわたしたちのために、荒れ野に赴いて下さった。それが、イエス・キリストです。そして、荒れ野での試みに勝利し、最終的に、十字架の死を通して、イエス様は勝利して下さいました。このキリストにあって、このキリストに結ばれて、わたしたちも荒野に勝利することができる。それが、今日覚えたい第三のことがらです。コリント第一の手紙10章13節、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」これは、キリストにあって、キリストに結ばれてということであり、「逃れる道」、それは、キリストがともにいて下さる道ということです。

(前川隆一牧師)