盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。  ヨハネによる福音書10章10節

 イエス様が、イエス様とわたしたちの関係を羊飼いと羊の関係に置き替えて、教えておられるところです。
羊飼いが必要
今日の箇所を通して第一に覚えたいことは、わたしたちは、羊飼いを必要としているということです。羊というのは、外敵に対して何の武器も持たない動物です。また、近視眼であり、羊飼いによって導かれないと、目の前の草を食べ尽くしてしまって、そのまま飢えてしまう動物です。さらに、欲望のコントロールがきかず、食べて食べて丸々と太って、そのままごろりと仰向けになってしまうと、起き上がることができずに死んでしまう動物だそうです。まさに、わたしたちの姿ではないでしょうか。そんな羊のようなわたしたちにとって、よい羊飼い、それが、主イエス様なのです。「わたしは良い羊飼いである」(11a)。
聴き従うことが必要
そんな主イエス様のおことばに、わたしたちは聴き従う必要があります。あるときは川を渡り、あるときは荒野を通り、あるときは断崖絶壁のようなところを通ることがあるかもしれません。しかし、羊飼いの声に聴き従って歩むなら、必ず、青草の原に辿り着くことができます。同じように、見えるところは、逆境と思えるところ、不毛と思えるところ、絶望と思えるところを通ったとしても、主イエス様の御声に聴き従うなら、必ずいのちの道に導いていただくことができるのです。「羊はその声を知っているので、ついて行く」(4b)。
慰めの子となることが必要
イエス様は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とおっしゃいました(10b)。イエス様が「豊かに受けるため」とおっしゃった「豊かな命」とはどのようなものなのでしょうか。わたしたちは、他の人のために生きるとき、ほんとうの意味で、自分の命を輝かせることができます。主イエス様の慰めを受けて慰める者、「いっしょに主のもとに行こう」と励まし、慰める者となるよう招かれているのです。

                 (前川隆一牧師)