主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老たちにも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。 民数記11章25節
モーセが長老たちに主の言葉を語ったとき、長老たちにも主の霊が下り、預言状態になったという箇所です。これは、ペンテコステのできごとの予表としてのできごとです。わたしたちも聖霊をいただいて、預言者、主の証人とされるのです。では、わたしたちが聖霊によって預言者、主の証人とされると言うとき、具体的に、どのような存在とされるのでしょうか。
よりそう
聖霊がわたしたちを造り変えようとしておられるその目標、それは、イエス・キリストです。今日は、イエス・キリストがどんなお方であるかを学ぶことを通して、預言者、主の証人とされると言うとき、具体的に、どのような存在とされるのかを学ばせていただきたいと思います。そして、そのことを「エマオ途上」のできごとから学びたいと思います。「エマオ途上」のできごとを通して、第一に心に留まる。それは、イエス様の方が、弟子たちに歩み寄って下さったということです。弟子たちの驚き、とまどいによりそって下さったということです。
知恵と尊敬をもって
第二に心に留まる。それは、イエス様が弟子たちに聖書を解き明かされた、その解き明かしが知恵と恵みに満ちたものであったということです。ですから、二人の弟子は、自分たちは、心燃える経験をした。そうふりかえることができたのでした。
決断を委ねられた
第三に心に留まる。それは、イエス様が、二人の弟子に、決して強制なさらなかったということです。むしろ、エマオの村に着いたとき、イエス様はなお先に行こうとされたのです。イエス様は、二人の弟子たちの自由意思を尊重されました。二人の弟子たちは、その自由意思を働かせて、イエス様を引き留め、家にお迎えしたのでした。
聖霊がわたしたちを主の預言者、主のあかし人として下さると言うとき、わたしたちをそのような主の預言者、主のあかし人として下さるのです。
(前川隆一牧師)