更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」 ヨハネ1章51節
ナタナエルが、主の弟子となった場面です。
いちじくの木の下
第一に、ナタナエルは、いちじくの木の下にいるということをたいせつにしていました。祈りと黙想をたいせつにしていました。詰め込むのでなく、神様が働きやすいように、聖霊が働きやすいようにすきまをつくって行きました。スペースをつくって行きました。わたしたちも、わたしにとってのいちじくの木の下をもつということがたいせつです。このところに来ると、すっと神様の前に静まることができるというスペースをもっておくということがたいせつです。それは、ある人にとっては、文字通り、物理的な場所であるかもしれません。ある人にとっては、散歩をする。自動車を運転する。そのような移動中の空間であるのかもしれません。
偽りのない人
第二のこと、そんなナタナエルのことをイエス様は、47節ですが、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とおっしゃいました。ナタナエルには、「偽りがない」とは、どういうことを意味しているのでしょうか。それは、罪を犯さない人ということではありません。そうではなく、自分の心に偽りがない人ということです。人間ですから罪を犯します。そのことを示されたとき、自分の心を偽ることなく、悔い改めることのできる人。それが、「偽りがない」人ということでした。
行動の人
第三のこと、ナタナエルは、いちじくの木の下にいるということをたいせつにする人でした。祈りと黙想をたいせつにする人でした。では、彼は、動的に対する静的な人。静かに祈りと黙想に明け暮れるだけの人だったのでしょうか。そうではありませんでした。赦しと命とを受け取り、ナタナエルは、エネルギッシュな活動、ダイナミックな行動へと歩んで行きました。それは、祈りと黙想、それは、それ自体が目的ではなく、キリストという贈り物、福音というプレゼントを受け取る。それが、祈りのときであり、黙想のときであるからです。
(前川隆一牧師)