神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。               ヨハネ3章16節
 
 「聖書のミニチュア」と呼ばれるヨハネによる福音書3章16節を含む箇所です。

驚くべき御業
まず、ジョン・ニュートンが経験した「驚くべき御業」とは、どのような経験であったのか、ということを通して、このヨハネによる福音書3章16節を味わいたいと思います。ジョン・ニュートンもまた、航海の途上、神の「驚くべき御業を見た」人でした。彼は、嵐に遭遇し、命の危機にさらされる経験をします。そのとき、お母さんによって蒔かれた信仰の種が芽を出し、神の名を呼んだ。その経験がきっかけとなり、その後、彼は、船乗りの仕事を辞め、メソジスト教会をつくったジョン・ウエスレー、チャールズ・ウエスレーらに学び、洗礼を受け、クリスチャンとなり、さらに献身して牧師になります。神様は、よいお方であり、本来的なわざとして、よい業をなして下さるお方です。けれども、異なるわざとしての災いをもお用いになるお方です。災いそのものが、神様の恵みということではありません。また、災いそのものによって、わたしたちは、神様に立ち返ることはできません。そうではなく、災いを通して、自分の弱さ、罪深さを示され、そのわたしのために十字架で死んで下さったイエス・キリストと出会うことを通して、わたしたちは、神に立ち返ることができるのです。

わたしたちにとっても
とともに、ヨハネ3章16節のメッセージ、それは、信仰生活を長く送っているわたしたちにとっても、「驚くべき御業」です。福音、それは、わたしたち人間が生まれながらにして理解できないことがらです(Ⅰコリント2章14節)。わたしたちは、その何千分の一、何万分の一を経験しただけなのです。ルターは、「もし、わたしが病気のとき説教することができたら、多くの適切な説教と講義をしたことであろう。なぜなら、そのとき、ダビデの詩編とその中に見られる慰めを少しではあるが理解するからである」と言ったようです。そのような謙虚さをもって、わたしたちは聖書を経験し、聖書を語るようにと召されているのです。

(前川隆一牧師)