イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

                                マルコ1章31節
 

イエス様がペトロのしゅうとめの病気をいやされたこと(29~31)、イエス様のもとへやって来たおびただしい数の人々をいやされたこと(32~34)、翌朝早く、イエス様が人里はなれた所で祈っておられたということ(35~39節)が記されています。

イエス様の奉仕
29~34節に記されているイエス様のお姿は、きびきびと行動を起こして、人々をいやしていかれるイエス様のお姿です。「愛は動詞」です。わたしたちもこのイエス様のお姿を模範として、愛する者、仕える者、行動を起こしていく者とならせていただきましょう。

奉仕の原動力
 そのようなイエス様の活動的な奉仕を支えていたもの、それが、祈りであったということに心を留めましょう。ときどき、わたしたちは、お願いすることだけお願いしたら、せっかく神様が語ろうとしておられるのに席を立ってしまう、そんな祈りの生活を送っているということがあるのではないでしょうか。祈り、それは、神様との会話です。やりとりです。そんな祈りの生活をわたしたちも回復させていただきたいと思います。

奉仕の目標
では、そのようなイエス様の奉仕の目標は何だったのでしょうか。それは、今日の箇所の最初の部分、ペトロのしゅうとめのいやしのできごとにそのことが示されています。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」とあります(31)。ペトロのしゅうとめはイエス様にいやしていただいて一同をもてなす者となりました。イエス様に仕えていただいた者が仕える者となっていく、それがイエス様の奉仕の目標でした。

イエス様は「近くのほかの町や村へ行こう」と言って別の町、別の村へ向かって行かれました(38)。イエス様は、父なる神様のみこころへと歩んで行かれました。その行き着くところは十字架でした。それは、イエス様が、わたしたちの罪の身代わりとして十字架で命を捨てることを通して、わたしたちに仕えるために来られた救い主だったからでした。わたしたちもイエス様に仕えていただいて仕える者と歩ませていただきましょう。

(前川隆一牧師)