二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
                               マタイ18章20節

「腹を立ててはならない」、「姦淫してはならない」、「離縁してはならない」、「誓ってはならない」、そう表題につけられている部分です。

愛する者となるために
イエス様は、わたしたちを戒めでがんじがらめに縛ろうというのではなく、神を愛する愛によって、隣人を愛する者となるように。愛し、建て上げて行く者となるように。それが、イエス様が、ここで教えておられる本質ということができます。それにしても、わたしたちは、このようなイエス様の教えに、どのように応えることができるのでしょうか。

環境を整える
わたしたちは、罪を犯すことがないように環境を整えて行くということが必要です。では、罪を犯すことがないように環境を整えて行くというとき、それは、あらゆる面で何の問題もない豊かな環境を目指して行くということなのでしょうか。それはそうではありません。罪を犯すことがないように環境を整えて行くというとき、それは、神との交わりを確保するという意味での環境を整えて行く必要があるということです。

罪の赦し
わたしたちは、罪を犯すことがないように環境を整えて行く必要があります。けれども、環境を整えて行くと言うとき、そこに、一つの落とし穴があります。イエス様の当時の律法学者、ファリサイ人たちもまた、罪を犯すことがないように環境を整えるということに熱心な人々でした。彼らは、罪、それは、外から入って来ると考えました。罪、けがれ、それは、外から来るものではありません。わたしたちの内側に潜み、内側から出て、人を傷つけ、人と人との関係を破壊してしまうものなのです。そのわたしたちのために、神が侵入して来て下さった。それが、イエス・キリストというお方でした。そして、わたしたちのその罪を身に負い、身代わりに裁かれて下さった。それが、あの十字架のできごとでした。このキリストの十字架の赦しときよめを受けて、わたしたちは、ほんとうの意味で、愛する者としていただくことができるのです。その罪の赦しを受け、神との交わりを回復させいただく場、それこそが、礼拝なのです。

(前川隆一牧師)