はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。             ヨハネ12章24節
 
クリスチャン以外の方々にも知られている24節のなみことばを含む箇所です。


ギリシャ人は、イエス様にぜひお会いしたいとの願いをもっており、まず、フィリポに取り次ぎを願います。フィリポは、アンデレとともに、そのことをイエス様に取り次ぎます。それを受けて、イエス様がおっしゃったのが、23節以下のおことばでした。ギリシャ人は、直接、イエス様からおことばをいただいたのか、伝言を受けたのか、分かりません。しかし、いずれにしても、ギリシャ人は、何のことか分からなかったと思われます。謎のように感じられたに違いありません。

十字架
けれども、それがやがて、明らかにされるときがやって来ます。それが、キリストの十字架のできごとでした。麦が耕された黒い土の中に落ちる。姿を隠してしまう。見えなくなる。けれども、そこから緑の芽が吹き、蒔かれた種と同じ種類の種をもつ実がたわわに実って行くのです。もし、種が、「土に蒔かれるのは嫌だ」と、頑固に農家の倉庫の片隅に居座っていたなら、そのような実りを得ることはできないのです。それと同じように、イエス様は、死ぬことを通して、十字架で死ぬことを通して、命を、永遠の命をもたらすお方として、お出でになったということです。

実際的
ギリシャ人にとって、そうであったように、謎のように感じられる。それが、福音のメッセージです。わたしたちは、教会では、どうしてもっと実際的な説教が語られないのか。そんな風に思うことがあるのかもしれません。けれども、わたしたちの願いの多くのものは、自分の栄光を願い求める願いなのです。罪がまとわりついた願いなのです。その罪は、キリストとともに死ななければならないのです。キリストとともに古き人に死に、復活のキリストに結ばれて、わたしたちは、実を結ぶことができるのです。ですから、謎のように感じる、福音のメッセージの中にこそ、ほんとうの実際的なメッセージがあるのです。

(前川隆一牧師)