マタイ25:31-46
「小さい者、主にある人を受け入れ仕えなさい」との勧めと「その報いを与える」との約束-律法の形をとってイエス様は何度も弟子たちにこの教えを説かれました。
今日の聖書個所はその教えが再び説かれているのですが、ここには他の個所にはない3つの特徴があります。
- 羊と山羊という受け手の2つの応答が記されている
・した覚えがないのにしたとされた羊
・した筈との思いが空回りしている山羊
→私たちは、羊か山羊のどちらなのかではなく、羊でもあり同時に山羊でもあると気づきます。
- 羊と山羊に対する審判が記されている
羊でも山羊でもある自分は、この審判でどちら行きになるのでしょうか?答えは山羊の側です。
裁かれる神様の前に、自ら絶望するしかありません。
- この個所は受難週火曜日のイエス様の説教である
記事は絶望しかない説教からナルドの油注ぎに続きます。さらに続く十字架によって、羊であり山羊である私がそのままで赦され、約束の報いが先に与えられました。あとは主の勧めを生きる、救いの生涯への召しが続きます。
これが十字架の福音です。この恵みゆえに自ら進んで、神には信仰を通して、隣人には愛を通して仕えてゆくものへと召し出されています。
このようにして、私達は「救い」から「従順」へと召され、「再出発」の生涯を繰り返してゆくのです。
(松田勝長老)