わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。                  マタイ10章34節

 今日の箇所を通して、信仰生活がいかにすれば祝福されるか、ということについて学びたいと思います。

わたしに語られたみことばとして聴く

 「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。「イエス様は、平和の君としてお出でになったのではないか」と戸惑う方も多いみことばです。このみことばをどのように受け取ったらよいのでしょうか。わたしたちは、互いに愛し合うべきです。でも、わたしたちの愛は、しばしば、自己中心的になってしまうのです。依存となり、支配となってしまうのです。そのようなわたしたちの現実に、イエス様は鋭く切り込んで来られるのです。このようなきびしいみことばは避けて通りたい、と思います。けれども、このようなみことばも、いや、このようなみことばこそ、自分に語られたみことばとして聴くことを通して、大きな祝福を経験することができるのです。

十字架を通してみことばを聴く 

第二に、その剣がどちらに向いているか、ということがたいせつです。みことばは、わたしたちの罪の性質、自己中心的な性質に鋭く切り込んで来ます。そして、自分の力で正しい関係を造り出すことができないという罪の現実にわたしたちを直面させます。そのわたしたちを、みことばはキリストのもとへ導いて下さるのです。そのあなたのために、キリストが身代わりに十字架に死んで下さったではないか、そして、よみがえって下さったではないか、とわたしたちに語りかけて下さるのです。その剣は、イエス様の上に振り下ろされたのです。

キリストの中に自分を見出す

 第三に、キリストの中に自分を見出していく、ということです。40節で、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われています。キリストの弟子とされた一人一人は小さなキリストである、と言われています。わたしの値打ち、それは、キリストのいのちであることを、わたしたちは知り、正しいプライドを身につけていくことがたいせつです。

                             (前川隆一牧師)