あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

                             マタイ5章23~24節

「地の塩である」「世の光である」、そう、理想に生きるようにとイエス様が勧めておられる箇所です。

理想主義?
理想ということばを聞いて思い浮かぶ、それは、理想主義ということばです。この理想主義は、プラトンによって始まりました。いずれにしても、「地の塩である」「世の光である」、そのような、理想に生きるようにとの勧めを聞いて、わたしたちのうちに起こって来る反応、それは、わたしのような者がとてもとてもという反応ではないでしょうか。

である
今日の箇所で、一つの鍵になることがら、それは、イエス様が、「地の塩である」「世の光である」と言われたということです。それにしても、わたしたちは、どのようにして、「地の塩」「世の光」になることができるのでしょうか。

ボン・フェッファー
少し話は飛びますが、ボン・フェッファーは、宗教ということばを極端に嫌いました。宗教、それは、人間の下から上への探求です。福音、それは、神が上から下に人間となって下さった。それが、福音であるということです。先ほど、プラトンの理想主義の考え方についてご紹介しました。けれども、実はそうではないのです。わたしたちの良心は、罪の故に歪んでしまっているのです。曇ってしまっているのです。そのわたしたちのため、人となって下さったキリスト、十字架へと歩んで下さったキリスト、そこに、わたしたちは、ほんとうの理想の人間を見ることができるのです。それだけではありません。十字架と復活を通して、キリストは、理想の人間の姿、本来の人間の姿を回復して下さったのです。そして、それを、恵みにより、信仰によって、受け取ることができるようにして下さった。その恵みを受け取る場、それが、礼拝であるのです。

「地の塩である」「世の光である」、それは、キリストにあって、自分を大きくしようとする罪を悔い改めて生まれてくる歩みです。とともに、自分のような者がと、自分を小さくしてしまう罪を悔い改めて、そこで、生まれて来る歩みであるのです。

                                    (前川隆一牧師)