「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」 ゼカリヤ書9章9節
イエス様がエルサレムに入城された場面です。
王として
イエス様は王としてエルサレムに入城されました。それは、わたしたち人間が本来王として、神の王子として歩む存在であるという模範を示すためにイエス様は王としてエルサレムに入城なさいした。ルターは、キリスト者の自由の中でこんな風に言っています。「キリスト者とは何であるか、また、キリストがこれを獲得して与えてくださった自由とは、どのようなものであるか、これについて聖パウロは多くのことを書いているが、われわれもこれを根底から理解できるように、私は次の二つの命題をかかげてみたい。キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」。
柔和な王として
イエス様は軍馬ではなくろばに乗って入場されました。イエス様は、わたしたちが王として、しかも柔和な王、仕える王として歩む必要があるという模範を示すために、ろばに乗ってエルサレムに入城されたのでした。イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された、これは、考えてみれば、こっけいなことです。けれども、イエス様がろばに乗られたとき、このろばは、イエス様に用いられるろばとなったのでした。わたしたちも「主がお入用なのです」とのことばに従うとき、そのままで主に用いられる器とされるのです。
信仰の目をもって
そして今日第三に、イエス様の当時、だれもイエス様の心を理解することができなかった、ということに心を留めたいと思います。イエス様は、群集や弟子たちが期待するような、あるいは時の権力者が恐れるような地上の王ではありませんでした。わたしたちは、イエス様の当時の人々がイエス様の心を理解することができなかったということを反面教師とし、ろばに乗ってエルサレムに入城されたイエス様、十字架で死なれたイエス様、そこにわたしたちの救いがあり、神の子、神の王子としての身分の回復があるということを信仰の目をもって見る者としていただきたい、と思います。
(前川隆一牧師)