イエスは言われた。「恐れることはない。言って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしと会うことになる。」 マタイ28章10節
イースターの朝のできごとです。
主であるお方を失う経験
イエス様は、男性の弟子たちのことを、「兄弟たちに」とおっしゃいました。このことには、実は、背景がありました。イエス様は、十字架上において、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは、詩編の22編で預言されている預言の成就として、こう叫ばれたのでした。そして、詩編の22編23節の成就として、「兄弟たちに」とおっしゃったのでした。弟子たちは、イエス様から、「兄弟」と呼んでいただく経験をしました。けれども、その前に、自分たちが師とし、主とするイエス様を失う経験をしました。しかし、それは、弟子たちのための身代わりの苦しみであり、死のできごとでした。
兄弟
イエス様は、一人、十字架の絶望的な苦しみを味わわれました。けれども、その苦しみと死をくぐりぬけ、復活して、弟子たちのことを「兄弟」と呼びかけられました。そして、弟子たちは、イエス様を言わば長男とする主にある兄弟姉妹の関係の中へと招き入れられたのでした。
希望
弟子たちは、身代わりに苦しみ、十字架で死んで下さり、復活されたイエス様から「兄弟」と呼んでいただく経験をしました。主にある兄弟姉妹という新しい関係の中に入れられました。そして、第三に、その愛し合い、仕え合う、すばらしい交わりをさらに超えた、主イエスとお会いするという復活の希望に向かって歩んだのでした。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」(フィリピ1:21~24)。
(前川隆一牧師)