わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

                              ヨハネ15章26節

今日の福音書の中の鍵となることば、それは、「証し」ということばです(27)。

みことばを手渡す
主を証ししていく、そのことには、二つの側面があります。その一つは、聖書のことば、みことばを手渡していく、という側面です。今日の箇所でも、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と言われています。真理の霊、すなわち、聖霊が弁護者である、と言われています。けれども、ともするとわたしたち人間が、イエス様、神様の弁護者になろうとしていることはないでしょうか。そうではなく、聖書のことば、みことばを手渡してく、それが、証なのです。

みことばによって変えられる
証し、それは、みことばを手渡すことです。とともに、証しをしていくために、わたしたち自身がみことばによって変えられていく必要があります。あのアブラハムの甥のロトは、ソドムの町が滅ぼされようとしていると娘婿に告げますが、愚かなこととして一蹴されてしまいます。それは、ロトのことばと生活とがかけ離れていたからでした。証しをしていくために、わたしたち自身がみことばによって変えられていくということが必要です。

聖霊によって
証しをしていくために、わたしたち自身がみことばによって変えられていくということが必要です。けれども逆に、自分はまだまだ変えられていないと自分ばかり見て、せっかくの証しの機会を逃してしまうとしたら、それはもったいないことです。自分のような者がと思う、そのわたしを案外神様はお用いになるのです。みことばを手渡していく、それが、証しです。また、証しをしていくために、わたしたち自身が変えられていく必要があります。その全体を導いて下さる、それが、聖霊なのです。

みことばを手渡していく、それが、証しです。証をしていくために、わたし自身が変えられていく必要があります。そして、聖霊に導かれて、証ししていくようにわたしたちは召されているのです。

(前川隆一)