先週のメッセージ
二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。 ルカ24章32節
エマオ途上で、復活の主が二人の弟子たちにお姿を現されたできごとです。
聖書を通して
心の目が閉ざされている二人の弟子に対して、イエス様はご自身生きているということをどのように示されたのでしょうか。それは、第一に、聖書を説き明かされたということでした(27)。よく、旧約の神は裁きの神であり、新約の神は赦しの神であると言われることがあります。でも、そうではありません。イスラエルの苦難をともにして下さった。それが、イスラエルの神でした。
心を開いて
そのようなイエス様による聖書の解き明かしを聞きながらの道行きの末、エマオにたどり着きます。29節、なお先に行こうとされるイエス様に向かって、二人は、「『一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って無理に引き留めた」とあります。何が起こったのでしょうか。二人の弟子の心が開かれたということです。さらに、30節ですが、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。何が起こったのでしょうか。二人の弟子の心が開かれて、イエス様に一家の主人の座、言わば、ホストをお譲りしたということです。イエス様がなさった第二のこと、それは、弟子たちの心を開かれたということでした。
隣人に対して
復活の主とお会いした二人の弟子は、そのまま、エルサレムへと取って返しました。それは、復活の主とお会いしたということを伝えるために、でした。主は、生きておられるということを伝えるために、でした。何が起こったのでしょうか。イエス様によって、心が開かれ、それが復活の主であると認めると同時に、今度は、隣人に対して心が開かれたのでした。
二人の弟子が経験したこと、それは、礼拝を通して、わたしたちも経験できることがらなのです。
(前川隆一牧師)
以前のメッセージ
聖書:マルコによる福音書15説 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
聖書:マルコによる福音書9章50節 「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
「誰がいちばん偉いか」という議論をしていた十二弟子に対して、イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい。」(35節)と言われたのでした。
聖書:マルコによる福音書8章34節 それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」