また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 マタイ9章36節
「群衆に同情する」、「十二人を選ぶ」、そして、「十二人を派遣する」と表題のつけられた最初の部分です。
知識において
イエス様が、弟子たちをどのようにお取扱いになったかを学ぶことを通して、わたしたちが、主の弟子として生きるために、どのようなことをたいせつにするよう招かれているのか。そのことを学ばせていただきたいと思っています。第一に、弟子たちは、「知識」において成長するようにと主に招かれました。今日の箇所の並行箇所であるマルコによる福音書3章13節を見ると、「彼らを自分のそばに置くため」と記されています。まず、ご自分のそばに置くため、それは、彼らを教えるため、彼らに「知識」を与えるために、主は弟子たちを任命されました。
知識を用いることにおいて
第二に、「知識」において成長すると言うとき、その「知識」を用いるようにと、彼らは、主に招かれました。信仰の知識、それは、使えば使うほど豊かにされるのです。使えば使うほど、より生きたものとされるのです。
恵みにおいて
第三に、「恵み」において成長するようにと、弟子たちは主に招かれました。イエス様は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」ました。その憐れみが、ほかでもない。自分に注がれている。自分自身が、憐れまれるべき罪人である。このわたしのために、イエス様はいのちを捨てて下さったということを知り、その救いを受け取ることを通して、弟子たちは、俄然、弟子として歩み出して行ったのでした。
わたしたちも、「知識」において成長するようにと招かれています。その「知識」を用いるようにと招かれています。けれども、用いれば用いるほど、わたしたちは、自分の罪を見いだして行くのです。そこで、わたしたちは、主の恵みに立ち返り、その恵みのよって、主の弟子として歩むことができるのです。
(前川隆一牧師)