「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」                  マタイ1章21節
 ヨセフという人。彼は、自己否定に生きた人でした。
正しい人
第一に、ヨセフは、「正しい人」でした(19)。ヨセフは、神様のみこころに歩もうとした、そういう意味で正しい人でした。とともに、ヨセフは、自分の正しさで人を切り刻んで行くような人ではなく、やさしい心で、マリアの行く末を案じ、マリアを守ろうとしました。そのように、誠実で、しかもやさしい人であったからこそ、ヨセフの心の中は嵐のように怒りと悲しみと疑いとが渦巻いていました。

自分の人生を引き受けて行ったヨセフ
そんなヨセフ、けれども、最終的にヨセフは、マリアを受け入れて行きます。さまざまな自分の思いを否定して、マリアを引き受け、また、神様のみこころを引き受けて行きます。何が起こったのか。ヨセフに神様がお語りになったということでした(20)。上からの語りかけをいただいたヨセフ、彼は、神の協力者となって行きました。

自分の罪を引き受けていただく経験
ヨセフは、神の協力者となって行きました。自分の思いを否定して、マリアを引き受け、また、神様のみこころを引き受けて行く者となって行きました。その原動力、それはどこにあったのか。それは、神が自分の罪を引き受けて下さるという経験でした。ヨセフは、正しい人でした。けれども、深いところで、自分の罪を自覚している人でした。その罪を引き受けて下さるお方として、神が救い主を送ろうとしておられる。そのことを、ヨセフはどれほど深いところまで理解したか、それは分かりません。けれども、そのことを知らされ、悟り、受け入れたのでした。ヨセフは、イエス・キリストの十字架のできごとを見ないまま地上の生涯を終えました。それに対して、わたしたちは、キリストの十字架を見ています。十字架のできごとを見、その意味を、聖書を通して悟らされ、キリストとともに古い人に死に、キリストとともに新しい人として復活する洗礼の恵みに与る者とされているのです。

(前川隆一牧師)

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