悔い改めにふさわしい実を結べ。」             マタイ3章8節

 洗礼者ヨハネの登場の場面です。
偽りの悔い改め
ヨハネは、ファリサイ人、サドカイ人の悔い改めが真実のものではないということを見抜いていました。では、真実の悔い改めではない偽りの悔い改めとはどのようなものなのでしょうか。それは、自分を神とするということを譲ることなく、自分を助けてくれるものとして神を求める。それが偽りの悔い改めです。

真実の悔い改め
では、それに対して、真の悔い改めとはどのようなものなのでしょうか。それは、自分を神とするということをやめるということです。自分が本来造られ、生きるようにと意図されたその状態に立ち返るということです。けれども、このことがなかなか至難の業なのです。わたしたちにとって、真の悔い改めへの道、本来意図された人生へと帰る道、それは、あの「ファリサイ人と徴税人のたとえ」の徴税人の祈りにあります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」、そう徴税人は祈りました。それは、すなわち、「罪人のわたしを贖ってください」という祈りでした。わたしのうちには、正しく生きる力も、また、罪を贖うこともできないと認めて、わたしを贖って下さるお方を信じる。それが、真の悔い改めの道であるということです。

悔い改めの実
最後に、ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実」ということを言いました。これは、悔い改めプラスそれに伴うよいわざとしての実が求められているのでしょうか。そうではありません。悔い改め神の子とされた人の実か、悔い改めていない人の実かということが、ここで問題とされています。神様は、悔い改め、キリストを信じ、神の子とされた人の、それがどんなに小さなわざであっても、それに注目されるのです。それに対して、それがどんなに大きなわざであっても、悔い改めていない人のわざに対して、「あなたたちのことは全然知らない」と言われるのです。

(前川隆一牧師)

 

 

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