あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。 ルカ12章57節
「分裂をもたらす」、「時を見分ける」、「訴える人と仲直りする」と表題のつけられている三つの箇所です。
時を見分ける
54節から、イエス様は、また、群衆の方に向き直り、語り始められました。恵みのことばを語って下さるに違いないと期待した群衆。けれども、その群衆に向かって、イエス様は、「偽善者よ」とおっしゃいました。そして、語られたこと、それは、「時を見分ける」ということについてでした。けれども、「時を見分ける」ということと「偽善」ということが、どのように関わっているのでしょうか。それが実は、57節からのところです。
隣人との和解
57~59節で、語られていること、それは、隣人との和解ということです。つまり、「時を見分ける」ということで、イエス様がわたしたちに求めておられる。それは、人類の歴史がどこから始まってどこに向かっているのか、というような壮大なことではなく、神様がわたしの前において下さった隣人との関係において何をなすべきかを知る。それが、イエス様が求めておられることがらなのです。そして、その関係において、偽善の罪を犯している。そう、イエス様はおっしゃっておられるということです。
何を目指して生きたか
では、わたしたちは、何をなすべきかを知り、それを行うことによって救われるのでしょうか。そうではありません。イエス様は、わたしたちがどう判断したかに、目を留めて下さるのです。神様がわたしの前において下さった隣人との関係において、偽善の罪を犯している。そのわたしたちのために、キリストは、十字架で、命を献げて下さいました。そして、キリストを信じることを通して、わたしたちは、幼子の心を回復していただき、その幼子の心によって、時を見分ける者としていただくことができるのです。さらに、何をなしたかではなく、どう判断したかということに、目を留めて下さる主のまなざしの中で、だいたんに、隣人を愛し、仕える者としていただくことができるのです。
(前川隆一牧師)