イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。             ヨハネ5章6節
イエス様が、38年間も病気で苦しんでいた人をいやされたできごとです。


まず、聖書で言う罪ということについて考えてみたいと思います。わたしたち人間は、わたしたちを創造された創造主なる神様とのつながりの中で生きるように造られ、生かされています。それにもかかわらず、そのつながりが断たれてしまっている。その関係をほかのもので満たそうとしている。それが、聖書の罪ということです。そういう意味で、この人の罪、それは、被害者意識ということが彼の偶像となっていたということでした。被害者意識という言い訳が、言わば、この人の生きがいとさえなっていたということです。

悔い改め
第二に、イエス様は、この人に、「良くなりたいか」と質問されました。それは、すなわち、この人のうちに、「良くなりたい」という思いを引き起こすために、でした。被害者意識の中にどっかり座り込んでいたこの人に、自分の足で立って、歩き出す新しい人生があるということに気づかせ、立ち上がらせて下さったのでした。そのことを、聖書は、悔い改めと言います。悔い改め、それは、自分の罪を悔い悲しむということではなく、方向転換ということです。

予表
アウグスティヌスは、「そこには大勢の人がいたが、イエスなら一言で全員を立ち上がらせることができたはずだ。にもかかわらず、一人しか癒されなかった」と言いました。どうしてでしょうか。それは、このできごとは、一つの予表としてのできごとであるのです。この人の病をイエス様がいやされた、それは、安息日のことでした。この人が安息日に、起き上がらせていたように、安息日に、主が復活する。死から立ち上がられる。そして、その復活の主が、この人を立ちあがらせられたように、キリストを信じるわたしたちをも新しい命に立ち上がらせて下さる。そのことの予表としてのできごと。それが、このできごとであるのです。

(前川隆一牧師)