それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」   マルコ7章14~15節
 
マルコによる福音書の中で繰り返されて来た論争物語の続きの箇所です。

手段か目的か
ここで議論されている、それは第一に、「目的か手段か」ということでした。ファリサイ派の人々や律法学者たち、彼らは、枝葉ばかりにとらわれて、神の戒めの精神を見失ってしまっていました。手段である人間の言い伝えを目的と取り違えてしまっていました。

内か外か
第二に、それは、「内か外か」という議論に移って行きます。「けがれ」それは、「外から」ではなく、「内から」来るものです。わたしたちの存在が、罪人だから、罪にひかれて、罪を犯してしまうというのです。パウロも、ローマ3章23節で、「人は皆、罪を犯して神の栄光男受けられなくなっていますが」と言い、今日の箇所で、イエス様も、マルコ7章21~23節ですが、「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらない行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」とおっしゃっておられる通りです。

外において
わたしの存在が、罪人だから、罪を犯してしまう。そのような罪の現実の中で、わたしたち生きています。そのようなわたしたちの内なる現実に対して、わたしたちの外において、きよめをまっとうして下さった。それが、キリストの十字架のできごとでした(ローマ5章8節)。わたしたちの外で成し遂げて下さったキリストの十字架の救いをわたしのためと信じ、受け取る。そのことを通して、わたしたちは、罪赦され、神の子とされるのです。わたしたちは、地上の生涯を生きる限り、罪を犯し続ける罪人です。とともに、キリストにあって、罪赦され、神の子とされ、新しい者とされた。それが、わたしたちです。その神の子とされ、新しい者とされたわたしとして、わたしたちは、新しい人生に歩むことができるのです。

(前川隆一牧師)