ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、行き帰ったのだ」と言った。                           マルコ6章16節

洗礼者ヨハネの殉教のできごとです。

世のしたたかさ
まず第一に、世のしたたかさということです。ヘロデは、ヨハネの教えを聴き、ヨハネは正しい聖なる人であると理解していたということです。それにもかかわらず、彼を解放し、自由にすることをしなかった。決断を先延ばしにする優柔不断と言えるでしょうか。けれども、逆に言えば、信仰さえ、神のことばさえ、自分の手の中で、自由にすることができると思い込んでいる。またそのようにふるまう、世の権力者のしたたかさと見ることができます。

神のことばのしたたかさ
第二に、神のことばのしたたかさということです。優柔不断であったヘロデ。しかし、決断を迫られるときがやって来ました。娘に誓った手前、ヘロデは、洗礼者ヨハネを殺さざるを得なくなります。そのことを通して、ヨハネが語る神のことばを殺しました。抹殺しました。けれども、その神のことばは、生き続けたということです。イエス様の語られることば、行われるみわざ、そのうわさを聞いたとき、ヘロデは、そこに洗礼者ヨハネのことばと同じ響きを聞いたのでした。さらに言うなら、この後、イエス様もまた、十字架につけられて殺されてしまいます。イエス様の語られた神のことばも抹殺されてしまいます。けれども、それにも関わらず、神のことばは生き続けたのでした。イエス様は、十字架で死なれますが、三日目に復活、その福音は、弟子たちを通して、世界中に語り伝えられて行くこととなるのでした。ここに神のことばのしたたかさがあります。

実は、わたしたちもまた、イエス・キリストを十字架につけたのです。わたしの罪のためにもキリストは十字架で死んで下さったのです。そういう意味で、実は、わたしたちも神のことばを殺したのです。そのわたしたちを新しいわたしとして生かして下さる。それが、神のことばであるのです。この神のことばの力によって、わたしたちは、したたかに愛し、仕え、あかしして行くよう召されているのです。
(前川隆一牧師)