見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。 マルコ3章34~35節
「ベルゼブル論争」、「イエスの母、兄弟」と表題のつけられている箇所です。
愛し合う
身内の人々は、イエス様を連れ戻そうとしました。それに対して、イエス様は、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃったとすれば、家を出て、神の御心に従って歩むということをイエス様はおっしゃったのでしょうか。そうではありません。「家」、それは、自分がほんとうの意味で寛げるところです。けれども、罪が入って以来、だれかの犠牲の上に成り立っている、それが、家であり、家庭なのです。神の御心に従って、愛し合い、仕え合いなさい。それが、イエス様がおっしゃる「神の御心を行う」ということなのです。
祝福の基と
また、もう一方において、「寛ぐ」ということ、そのこと自体を目的としていまうという過ちもあります。家、家族、それは、それ自体で、閉じられた存在ではなく、家を通して、家族を通して、人々に、社会に仕えて行く、それが、家であり、家族なのです。自分たちさえよければよい。自分たちさえ幸せならよいということになって行くとき、取り込んで取り込んで、外に水を流し出すことをしない死海のようになってしまうのです。祝福の基となって、祝福を流し出して行く存在とならなければならない。それが、「神の御心を行う」ということなのです。
信頼
わたしたちは、神の御心を行っていると胸をはって言えるような歩みをしているでしょうか。そうでないとしたら、イエス様は、わたしたちのことを悲しみ、お責めになるのでしょうか。もし、イエス様が、悲しみ、お責めになるとして、それは、わたしたちが十分に神の御心を行っていないということに悲しみ、お責めになるのではありません。そうではなく、イエス様に信頼しないということを悲しみ、お責めになるのです。わたしたちは、イエス様に信頼し、このお方からゆるしと命を受け取って、神の御心を行うようにと召されているのです。
(前川隆一牧師)