そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」       マルコ2章27~28節
 

「安息日に麦の穂を摘む」と表題のつけられている部分、そして、「手の萎えた人をいやす」と表題のつけられている部分です。

遊び
ファリサイ人たちの信仰、考え方、生き方にスポットライトを当てて、みことばを味わいたいと思います。ファリサイ人たち、彼らに欠けていたもの、彼らが必要としていたもの、それは第一に、「遊び」ということでした。彼らは、熱心ではありましたが、神の戒めの目的を見失ってしまっていました。

ゆとり
第二に、ファリサイ人たちに欠けていたもの、彼らが必要としていたもの、それは、「ゆとり」ということでした。「心のゆとり」ということでした。彼らは、生き方において、「遊び」がありませんでした。その結果、「心のゆとり」を失っていました。

ゆるし
けれども、いちばん欠けていたもの、彼らが必要としていたもの、それは、第三に、「ゆるし」ということでした。イエス様は、手の萎えている人に命をお与えになった。その引き換えに、ご自身は、死への道、十字架の死への道へと一歩、歩み出して行かれました。それは、このファリサイ人たちのためにも、イエス様は、十字架の死への道を歩んで下さったのでした。

わたしたちには、働きが委ねられています。働き、それは、たいせつなものです。尊いものです。けれども、働きの中で得られないものがあるのです。わたしたちクリスチャンは、と言うより、実は、すべての人は、働きとともに、この礼拝に招かれているのです。それは、働きの場では決して得られない、「ゆるし」を受けるためにです。その「ゆるし」を与えるために、キリストは十字架で死んで下さったのです。

主のゆるしを受け、遊びとゆとりをもって、愛し仕える者として生きる。それが、わたしたち信仰者の歩みなのです。

(前川隆一牧師)