神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ヨハネ3章16節
旧約聖書は、イザヤの召命、福音書は、ファリサイ人のニコデモが、夜、イエス様を訪ねた場面でした。
罪の赦し
イザヤとニコデモ。置かれていた立場も異なる二人。けれども、共通することがありました。それは、神との出会いを経験したということです。もう一つ、彼らは、神の愛を経験したということです。第一に、イザヤは、また、ニコデモは、罪の赦しということを通して、神の愛を経験しました(イザヤ書6~7節)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。
みこころに歩む
第二のこと。イザヤもニコデモも、神様のみこころに歩むということの中で、神様の平安、神様の愛を経験しました。イザヤに与えられた神様のみこころ、それは、預言者として歩むということでした。けれども、その預言者としての活動は決して生やさしいものではありませんでした。みこころに歩んでいるということの中に、イザヤは、平安を見出し、神様の愛を経験することができたのでした。ニコデモは、イエス様が十字架で死なれたとき、アリマタヤのヨセフと協力して、イエス様のご遺体をヨセフの所有する墓に葬るということをしました。それは、とりもなおさず、イエス様が、十字架で死んで復活するというできごとのお膳立てをすることとなったのでした。
愛し愛されることを通して
第三のこと。神様は、人を備え、その人愛し愛することを通して、仕え、仕えられることを通して、神様の愛を経験させて下さいました。イザヤには、ヒゼキヤというよき理解者であり、イザヤの預言を受けとめ、応答してくれる存在が与えられました。ニコデモにも、アリマタヤのヨセフという同労者、協力者を神様は備えて下さっていました。わたしたちも、神様が備えて下さった人を愛し愛されることを通して、また、仕え仕えられることを通して、神様の愛を経験することができるのです。
(前川隆一牧師)