二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。             ルカ24章32節
 

 エマオ途上のできごとです。

よそ者
このできごとは、クレオパという実在の人物の名前が出て来るように、実際にあったできごとです。とともに、ここに描かれているできごと、それは、繰り返し、代々のクリスチャンたちが経験して来た信仰の歩みと重なるできごとです。まず、クレオパが、イエス様に向かって、「エルサレムに滞在していながら」と言った、この「滞在していながら」ということばは、よそ者として「泊っている」という意味のことばが使われています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1章11節)。イエス様が、わたしたちの根本的な問題である罪の解決のために、神である身分でありながら、まことの人となって下さったお方であるということ理解せず、よそ者扱いしてしまう。そこに、わたしたちの不信仰の姿を見ることができます。

解き明かして下さる
第二に、そんなクレオパに対して、イエス様は何をなさったか。それは、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、聖書を解き明かして下さるということでした。人生という旅路の中で、主が語って下さるということを、わたしたちも経験します。その中心、それは、この礼拝のときなのです。

心を燃やして下さる
第三のこと、それは、クレオパともう一人の弟子は、ふりかえったとき、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言いました。師であり、主であるイエス様を失い、意気消沈している二人の弟子の心に、もう一度火を灯した。それは、ともに歩んで下さる主でした。

わたしの内にも、わたしの方がこのことについてよく知っているという不信仰があります。そのわたしたちに、主は、語りかけ、正しい方向を指し示して下さいます。そして、わたしたちの心を燃やして下さいます。この週も、主に歩むべき道を示していただいて、また、主に心を燃やしていただいて、主とともに歩む一週間と導いていただきましょう。

(前川隆一牧師)