心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 マタイ5章8節
イエス様の山上の説教の冒頭部分です。
心の清い人
「心の清い」というときの「清さ」とは何を意味しているのでしょうか。ある人は、それは、「単純」ということだと言いました。その人の存在、心に、ひだがない、隠れるところがない、陰影がない。そういう意味で、「単純」ということです。修行を重ねて、汚れを捨て、その最高の境地に達した人が見るということではなく、単純な人、心にひだのない人、隠れるところのない人、陰影のない人、その人が神を見る。そう、イエス様がおっしゃったということです。
ダビデの祈り
わたしたちは、そのような心の清さに憧れます。その一方、わたしたちは、そうであり得ない自分の姿、自分の心というものを見るのではないでしょうか。わたしたちは、単純ではないのです。心にひだをもっているのです。心に隠しごとをもっているのです。心に陰影をもっているのです。あのダビデも、王となり、心にひだをもつ人となって行きます。心に陰影をもつ人となって行きます。やがて、ダビデは、ウリアの妻バト・シェバとの間に姦淫の罪を犯してしまいます。そして、それを隠蔽するために、ウリアを激戦地に送り、戦死させてしまいます。そして、その罪を、預言者ナタンに指摘されます。そのとき、ダビデが願った願い、祈った祈りが、詩編51編12節です。「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」これは、あまりにもあつかましい祈りなのでしょうか。そうではありませんでした。これは、正しい祈りでした。ダビデは、自分の働きではなく、神の働きによって、清い心を造っていただくことができるという信仰をもっていました。そして、神が働いて下さったできごと、それこそ、キリストの十字架と復活のできごとなのでした。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(コリント第二の手紙7章10節)。
(前川隆一牧師)