「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」
マタイ13章30節
毒麦のたとえです。
抜くべき毒麦
イエス様は、たとえの中で、毒麦を「育つままにしておきなさい」とおっしゃいました。それは、悪を見て見ぬふりをしなさいということなのでしょうか。そうではありません。聖書の中に、「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」と言われています(Ⅰコリント5章13節)。それでは、取り除くべき毒麦とは何でしょうか。それは、自分の内に芽生えて来る罪です。また、教会の内部に芽生えて来る罪についても、はっきりとそれが罪であると分かる場合には、処分をするようにとイエス様は勧めておられます(マタイ18章15~17節)。
そのままにしておくべき毒麦
それでは、そのままにしておくべき毒麦とは何なのでしょうか。どうしてイエス様は、毒麦を「育つままにしておきなさい」とおっしゃったのでしょうか。それは、多くの場合、それが毒麦であるか、よい麦であるか、早急に判断できない場合が多いからです。また、教会が、裁き合い、批難し合うだけになってしまったら、教会が教会でなくなってしまうからです。そして、何よりも、イエス様が毒麦をもよい麦に変えることのできるお方だからです。十字架で死に、よみがえって、救いの道を開いて下さったお方だからです(Ⅱコリント5章17節)。
両者を見分けるはかり
それでは、取り除くべき毒麦とそのままにしておくべき毒麦、その両者を見分けるはかりとはどのようなものなのでしょうか。わたしたちは、キリストに罪赦された者としてキリストを否定する霊を受け入れることはできません。逆に、キリストに罪赦された者として、人の弱さ、恐れ、疑いを、「自分もそのような者である」と共感するように召されているのです。この罪赦された罪人というはかりこそ、両者を見分ける正しいはかりなのです。
(前川隆一牧師)