「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たるものです。」
テモテへの手紙1、1章15節
今日の箇所は、「ぶどう園の労働者」のたとえです。
主権はだれにあるのか
このたとえ話を解く三つの質問があります。その第一は、「主権はだれにあるのか」という質問です。人間的に考えるなら、朝一番に雇われた労働者が文句を言うのは当然のように思えます。しかし、主人には主人の別のはかりがあり、この主人は、「自分のものを自分のしたいようにした」に過ぎないのでした。わたしたちも、わたしの思いが神様のみこころとすり替わっているとしたら、この朝一番に雇われた労働者のように、神様ではなく、自分を人生の主権者としているのではないでしょうか。
だれが一番苦しんだか
第二の質問は、「だれが一番苦しんだか」という質問です。確かに、朝一番に雇われた労働者は、一日熱い中を辛抱して働きました。でも、彼らは、一日の早いときに、仕事とその賃金が保障されました。それに対して、夕方5時に雇われた労働者は、今日は、もしかしたら仕事がなく、賃金がもらえないかもしれない、という不安と焦燥感の中で一日を過ごしました。わたしたちも、どうして自分だけが、と思うことがあります。けれども、少なくとも、試練の中で、「このことも意味があって神様がゆるしておられる試練であるのだ」と、信じることができるのです。そのような確信をもって、未だ救いを見出しいない方々のことを思いやる者とならせていただきたい、と思います。
最後に雇われた労働者とはだれか
そして第三の質問、それは、「最後に雇われた労働者とはだれか」という質問です。このたとえの一番一般的な解釈は、朝一番に雇われた労働者とは、人生の早い時期に救われた人のことであり、5時に雇われた労働者とは人生の終わり近くに救われた人のことであるという解釈です。けれども、永遠という尺度で考えるなら、人生のいつ救われたかといったことは、たいしたことではないのではないでしょうか。あのパウロも、晩年、自分のことを「罪人の中で最たる者」「罪人のかしら」と言いました。自分こそが、5時に雇われた労働者であると見ていく、そこに、このたとえが解けて来る鍵があるのです。
(前川隆一牧師)