心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 マタイ5章3節
山上の説教の最初の部分、「幸い」ということについてイエス様が説教しておられる部分です。
失うことの幸い
イエス様が教えておられる幸いとはどのような幸いなのでしょうか。「心の貧しい人々」(3)「悲しむ人々」(4)「柔和な人々」(5)、それはみな、失う経験、無力とされる経験をした人々です。世の中の常識から言えば、満ち足りていると、それを幸いと言うのではないでしょうか。どうして、失うことが幸いなのでしょうか。それは、失うことを通して、低くされるからです。けんそんにされるからです。ちょうど低いところに水が流れるように、失うことによってそれまで受け取ることができなかった神様の恵みを受け取ることができるようにされるのです。
神様と出会う幸い
そして、そのことを通して、神様との出会いを経験することができれば、それはすばらしい祝福、幸いへとつながっていきます。モーセは、老人となって自分の力がもはや失われたと思ったときに、神様の力を経験していきました。ヨブは、すべてを失ったと思ったそのただ中で、神様がともにいて下さるということを経験していきました。ペトロは、裏切ったその罪を神様によって赦していただくという経験をしていきました。
天の故郷を熱望する者とされる幸い
さらにそのことを通して、この地上のことがすべてではない、天の故郷を熱望する者とされたなら、それはずばらしい祝福、幸いへとつながっていきます。「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブライ人への手紙11章16節)。
今日は、召天者記念礼拝です。先に、天に召された方々も、そのような幸いを得られたお一人お一人です。わたしたちも、その信仰に倣う者とならせていただきましょう。
(前川隆一牧師)