イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」        マタイ22章37~39節

 一人の律法学者が、試そうとして「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問したのに対するイエス様のお答えです。

神を愛する愛と人を愛する愛
 どうして、この質問がイエス様を試すことになるのでしょうか。当時、神の律法には、何百、何千という人間的な細則が付け加わっていました。そして、それぞれの学派により、「この戒めこそ最も重要である」という強調点が異なっていました。イエス様がどの学派の立場に立っても他の立場の学派から批難を受ける、そういう意味で、イエス様を試す質問でした。けれども、イエス様は、どの学派の立場におもねることもなく、「それは、神を愛することと、隣人を愛することである」と明確に律法の中心をお語りになりました。

自分を愛するように
 イエス様のお答えで、注目すべきは、第二の掟に関して、「自分のように」と言われたことです。ファリサイ人も律法学者も熱心に神を愛し、人を愛していました。けれども彼らは、自分を打ちたたくように神を愛し、人を愛する生活を送っていました。そして、そのようにできない人々を裁いていました。それに対して、イエス様は、そのような当時の宗教家とは別の仕方で神を愛し、人々を愛していかれました。神を親しく「天の父よ」と呼び、罪人の友となっていかれました。それは、当時の宗教家から「大酒飲みの大めし食らい」とあだ名されるほどでした。いずれにしても、イエス様のまわりには自由な空気が流れていました。

キリストの愛を受け取る
 「言ったことばに責任を取らなければならない」。その意味でも、この質問は、イエス様を試す質問でした。当時の宗教家は、「自分を愛するように」隣人を愛することができませんでした。「あなたは、どのようにしてそのような愛に生きる者としようとするのか」というのがこの質問でした。それに対して、イエス様は、十字架の死をもってお答えになりました。イエス様の十字架の愛を受ける、そのことを通して、わたしたちはこの愛に生きることができるのです。そして、それこそが人生の急所、つぼなのです。