ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」                    ヨハネ1章23節

祭司やレビ人たちの質問に対して答えた洗礼者ヨハネの証しが記されています。

荒れ野で叫ぶ者の声

 洗礼者ヨハネの証しは、わたしたちが絶えず立ち返るべき原点でもあります。ヨハネは、「あなたはどなたですか」との質問を受けたとき、自分をメシアとしたい誘惑を受けたに違いありません。事実、たくさんの人々がヨハネのもとに押し寄せていました。でも、ヨハネは「わたしはメシアではない」と答えました(20)。そして、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言いました(23)。わたしたちも、自分以外の者になろうとするなら、疲れ果ててしまいます。自分の分をわきまえることがたいせつです。

その履物のひもを解く資格もない者

 また、ヨハネは、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」とへりくだりました(27)。それは、主のみこころに服従しようとするヨハネの信仰の姿勢をも表していました。ヨハネの時代から二千年余りさかのぼった時代、ヨハネが説教した場所からそれほど遠くないところで神の裁きを告げた人物がいました。ロトでした。でもロトのことばは受け入れられず、ヨハネのことばは受け入れられていきました。それは、ヨハネのことばと行動とが一つになって証しをしていたからでした。

水で洗礼を授ける者

さらに、ヨハネは、「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と言いました(26)。並行箇所であるマルコ1章8節を見ると、ヨハネは「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言ったことが分かります。ヨハネは、聖霊で洗礼を授ける、すなわち、神の子と生まれ変わらせる洗礼を授けることはできないということを認めながら、自分のできる水の洗礼、すなわち、後に来られるメシアに人々の心を立ち返らせる洗礼を行っていきました。「荒れ野で叫ぶ者の声」、でも、そのためにできることは何でもする、それがヨハネの姿勢であり、わたしたちが倣うべき姿勢でもあるのです(Ⅰコリント9章23節)。

(前川隆一牧師)