ヨハネによる福音書 20:24~29
フィリピの信徒への手紙 2:6~11
ヨハネ 20:29ではイエス様は見えない部分を信じていくことが大切だと示されておられます。見ないのに信じる人になるとは、私たちの心のうちに生きておられるイエス様のまなざしと同じまなざしで見ていくということです。はたして、私たちはそのようなことが出来るのでしょうか。
フィリピ2:6~8でイエス様がこの世に人として遣わされ、自らをさらに低いところにおいて一人ひとりが罪の赦しを得て、悔い改めることを心から願われました。十字架の上においても、罪びとである私たちの罪の赦しを父なる神様に願い、救いの道筋をつけようとされました。私たちの内にはイエス様がおられ、今も歩みを共にしておられます。
そしてイエス様は身体や心の痛みを持つ「今ある私」に正面から向き合ってくださり、そこに赦しを与えて下さっている。私たちは赦しを与えて下さるイエス様のそのまなざしを忘れることは出来ません。復活のイエス様が、確かに私たちの内に生きておられるその真実を信じ続ける時に、私たちは心の目で見ることが出来るように、神様により創り変えられていくのです。
ヨハネ 20:27で、トマスはイエス様の傷跡により近づいて、手を当て、脇に手を入れた、その時に心に傷跡の真実の意味を刻み込んでいます。このときにトマスはイエス様により、「見ないで信じる人」に創り変えられたのです。見える事や、手で得られる事に心を奪われる私たちですが、十字架、負われた傷跡に向き合い、悔い改めていくことが大切です。私たちは誰でもが赦されており、一人ひとりは主の御用のために用いられ、必要とされる存在なのです。
「信じます。信仰のない私をお助け下さい」と素直に祈れる者でありたいと思います。
(永田洋長老)