ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 コリント信徒への手紙第一、1章24節
イエス様が故郷のナザレにお帰りになり、安息日に会堂で教え始められたところ、最初人々はその教えに驚きましたが、最終的にその教えを退けてしまった、というできごとです。
悔い改めに生きる
ナザレの人々は、最終的にはイエス様のことを退けてしまいました。ということは、イエス様は人々をつまずかせてしまった。イエス様には知恵がなかった、ということになのでしょうか。そうではありません。ユダヤ人にはつまずかせるもの、ギリシャ人には愚かなものである、十字架を通してわたしたちを救おうとされた、そこにキリストの知恵が現されていたのでした。そして、このイエス様をわたしたちが神の子、救い主と信じる、そこに、キリストの知恵に生きる生き方が始まっていくのです。では具体的に、キリストの知恵に生きるとはどうすればよいのでしょうか。それは、第一に悔い改めに生きることです。
みことばに聴き従う
第二にそれは、イエス様のことば、みことばに聴き従うことです。聴き従ったとき、黄海は真っ二つに分かれました。聴き従ったときに、ナアマン将軍の体はきれいにいやされました。聴き従ったときに、ペトロは今まで経験したことのないような大漁を経験することができました。みことばに聴き従う、そのことを通して、わたしたちは、神のみわざを見ることができるのです。
弱さを誇る
そして第三にそれは、弱さを誇ることです(コリント信徒への手紙第二11章9節)。キリストの愛に包まれて、わたしたちは自分の弱ささえ誇る者とされます。それは、弱さの中でこそ、神の力、キリストの力が現されることを知っているからです。みことばに聴き従うことを通して、わたしたちは、神のみわざを見ることができます。でも、それは、びっくりするような奇跡ということばかりではありません。日常の中でわたしたちは、神の奇跡を見ることができるのです。
(前川隆一牧師)