三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ15章34節
ガリラヤ湖上において逆風のために漕ぎあぐねている弟子たちのところへイエス様が湖の上を歩いて近づいて行かれた奇跡のできごとです。
弟子の試み
今日の箇所は第一に、弟子たちにとっての試みのできごとでした。今日のできごとは、あの五つのパンと二匹の魚だけで五千人以上の人々をイエス様が養われた奇跡のすぐ後のできごとでした。弟子たちは、イエス様といっしょにいたいと思ったに違いありません。にもかかわらず、イエス様は弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸へ行かせられました。そして、湖の真ん中に差し掛かったころ、逆風に遭い、漕ぎ悩むことになってしまいます。わたしたちも、イエス様に従っているにもかかわらず、どうしてこんな試練が、と思うことがあるのではないでしょうか。
イエス様の試み
けれども、弟子たちが試みを受けていたころ、イエス様もまた試みを受けておられました。それが、今日覚えたい第二のことがらです。それは、群集を用いてイエス様を王としようとするサタンの試みをお受けになっておられました。
わたしたちの試み
第三に、わたしたちも人生において、さまざまな試みを受けます。弟子たちは、イエス様に裏切られたという経験をしました。でも、ほんとうにそうだったのでしょうか。その鍵は、イエス様が一人山に登り、何を祈られたかということにあります。イエス様が祈られた、それは、あの荒野の試みの三番目の試みに重なります。イエス様は、自分を王としようとする人々の声の中で、それが父なる神様のみこころかどうか、祈りを通してお尋ねになったのでした。その祈りは、あのゲッセマネの祈りを経て、十字架上の祈りへとつながっています。イエス様は、わたしたちが見捨てるようなことがあっても、わたしたちのことを決して捨てるようなことのないお方なのです。それどころか、わたしたちのために十字架で捨てられて下さったお方です。このお方とともに歩む、それが信仰生活なのです。
(前川隆一牧師)