「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」                        マルコ9章50節
ヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言ったのに対して、イエス様が「やめさせてはならない」と教えられた場面(38~42)、そして、いくつかのイエス様の教えが連想ゲームのようにつながっている後半(42~50)とです。

広い心
まず、前半の部分。ヨハネのまちがい、それは、自分たちの熱心さによってイエス様につき従うことができると思ったことでした。そうではなく、イエス様に従う、それは、恵みによるのでした。イエス様は、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とおっしゃり、広い心を持つようにお教えになりました。

塩を持ちなさい
そして、後半の部分。いろいろなことが連想ゲームのようにつながっていますが、最終的にその一つ一つが指し示しているのは、いちばん最後の部分です。「自分自身の内に塩を持ちなさい」ということが言われています。ここで塩とは、いったい何を意味しているのでしょうか。コロサイ信徒への手紙4章6節には、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」ということが言われています。「塩で味付けられた快い言葉」という「快い」ということばは、もともと「恵み」という意味のことばです。神の恵みが宿ることば、それが、「塩で味付けられた快い言葉」なのです。ですから、塩それは、神様の恵みということを意味していました。

火で塩味を付けられる
塩、すなわち、神様の恵み、恵みのことばを、わたしたちは自分のがんばりによって持つことはできないのです。イエス様は、火で塩味を付けられるとおっしゃっています。火とは何でしょう。それは、神様の審きを表しています。そして、そのわたしたちが受けるべき審きを身代わりに受けて下さった、それがキリストの十字架のできごとなのです。キリストの十字架の救いを通して、わたしたちは塩をもつ者とされ、人を受け入れていく広い心をもつ者としていただくことができるのです。

(前川隆一牧師)