イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」               マルコ10章27節

一人のお金持ちの男の人がイエス様のところへ「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と言って、やって来た場面です。

何をすれば
まずこの人は、まじめな人であったということが分かります。けれども、この人には過ちがありました。それは、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と、報酬として、永遠の命を得ようとした、ということです。報酬として、律法を守ることを通して永遠の命を得ようとする、そのとき、わたしたちは越えることのできない壁を自分の前に築くことになってしまうのです。

神にはできる
イエス様は、そのことを「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました(25)。そして、「それでは、だれが救われるのだろう」と驚く弟子たちに、イエス様は「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とお答えになりました(27)。神様は、もう一つの道を開いて下さいました。それは、賜物として、贈り物として救いを、永遠の命を得るという道です。そして、そのためにイエス・キリストがお出でになり、十字架への道を歩んで下さったのでした。

愛のまなざしの中で
ところで、イエス様のもとから去って行ったこの人は滅びに定められてしまったのでしょうか。鍵は、イエス様がこの人を「見つめ、慈しんで言われた」ということです(21節)。この「慈しんで」ということばは、直訳すると「愛して」と訳すことのできることばです。ということは、この人も、後の日に、今度は賜物としての救いを求めて教会を訪れた、という可能性を想像することもゆるされるのではないでしょうか。そして、この愛のまなざしがわたしたちの上にも注がれているのです。わたしたちは、イエス様の愛のまなざしの中で、救いを賜物として受け取り、その応答として神と人とを愛する者として生きるようにと招かれているのです。

(前川隆一牧師)