ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 ルカ10章33~34節
「善いサマリア人」と表題のつけられている有名な箇所です。
それを実行しなさい
この箇所を解く鍵の一つは、イエス様が、律法の専門家に向かって、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃったことばです。このことばを、イエス様がどういう意味でおっしゃったかということです。行いによっては救われない、それが聖書の教えです。ですから、イエス様が律法の専門家におっしゃったことば、それは、皮肉としておっしゃったということです。
サマリア人とはだれか
もう一つのこの箇所を解く鍵、それは、このサマリア人がだれであるか、ということです。むかしから言われて来た一つのことがら、それは、このサマリア人はイエス様であるということです。でも、それに対して反対する人もいます。実際、これはわたしのことだとイエス様がおっしゃっておられるところはどこにもないのです。けれども、このサマリア人が傷ついた旅人を見て、「憐れに思い、近寄って傷に油を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」と言われている「憐れに思って」というのは、原文では、「はらわた」を意味することばであって、この箇所以外、神様、イエス様に対してだけ使われていることばであって、人間に対して使われている箇所はないことばなのです。わたしたちは、たてまえとしては「愛」ということ、「愛する」ということ、それは、すばらしいと思います。けれども、現実の問題となったとき、本音において制限を設けてしまう、それがわたしたちです。でも、このサマリア人は、本音として人を憐れに思い、そのまま行動に移して行ったのです。わたしたちは、サマリア人であるイエス様に介抱していただいて、小さなサマリア人にしていただくことができるのです。
キリストの愛をいただいて、日常生活の小さな出会いの中で、示されて親切にしていく、仕えて行く、そのようにわたしたちは召されているのです。
(前川隆一牧師)