「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」    ルカ18章13節
 
「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえの箇所です。

罪人のわたしを
今日の箇所、二人の人の祈りが対比されています。まず、ファリサイ派の人ですが、彼は祈ったその通りの生活をしていました。けれども、その祈りの中に耳障りなことばが含まれていました。それは、自分で自分を義としようとする自己義認のことばでした。それに対して、この徴税人は、他の人との比較ではなく、自分の存在自体が罪であるということを認めました。

神様
第二に、この徴税人は、「神様」と信仰の目を神様に向けて行きました。ファリサイ派の人も「神様」と呼びかけています。けれども、ファリサイ派の人の祈りをよく見ると、祈りではなく、独り言であるということが分かります。それに対して、徴税人は、自分の存在自体が罪であるということを認めました。そして、それとともに、「神様」と信仰の目を神様に向けて行きました(コリント信徒への第二手紙7章10節)。

憐れんでください
第三に、この徴税人は、「憐れんでください」と祈りました。実は、この「憐れんでください」ということばは、非常に珍しいことばで、新約聖書の中で、この箇所と後一回しか出て来ないことばです。その後一回とは、ヘブライ人への手紙2章17節です。その中の「民の罪を償う」の「償う」ということばがそれなのです。この徴税人は、「わたしの罪を償って下さい」「わたしの罪を償う供え物となって下さい」と祈ったのです。

わたしたちも、自分自身の存在自体が罪であるということを認めて神様に立ち返り、神様が差し出しておられる罪を償う供え物、キリストの十字架の救いを受け取ることを通して、義とされる。そして、そのところから遣わされていくようにと招かれているのです。

(前川隆一牧師)