内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
ローマ2章29節
パウロが、「律法」と「割礼」について論じているところです。
外見上の割礼
今日は、特に、後半の「割礼」ということに焦点を合わせて、みことばを学びたいと思います。まず、外見上の割礼ということです。「ホンネ」と「タテマエ」ということを言います。もともと、タテマエということばは、決して悪い意味のことばではありませんでした。それは、もともと、建築用語でした。タテマエ、土台と枠組みがしっかりしていないと家は建たないのです。そういう意味で、神様は、タテマエをたいせつにされました。イスラエルと結ばれた契約をたいせつにされました(出エジプト4章24~26節)。
内面の割礼
家が建つために、タテマエはたいせつです。土台と枠組みがたいせつです。けれども、それとともにもっとたいせつなこと、それは、その家でどんな家庭生活が営まれるかということです。そういう意味で、外側とともに内側がたいせつです。でも、ここで問題になって来ることは、「心」ということに焦点を合わせて行くとき、その人をさらに追い詰めてしまうか、逆に、甘やかすことになってしまうということです。
霊によって
実は、外面的な割礼とともに心の割礼がたいせつであるということは、旧約聖書の時代から言われていたことでした(申命記10章16節)。でも、今日の箇所をよく読むと、パウロは、そのことを発展させているということが分かります(29)。上辺と中、体と心というコントラストから、パウロは、「霊と肉」「神からと人から」という風に、上と下というコントラストに発展させているということです。わたしたちは、本音の部分で自分の内面に向き合い、そして、その自分の罪の裁きの身代わりとして十字架で死んで下さった主イエス・キリストを見上げるようにと招かれているのです。
(前川隆一牧師)