しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 ローマ5章15節
アダムの型とキリストの型ということを論じながら、罪と死の現実と救いとを、大きなスケールにおいて比較しながら論証しようとしているところです。
アダムの型
心に留めたいこと、それは、罪と死とが、人格を持つ者のように表現されているということです(12)。ちょうど家族で団らんをしているときに、見知らぬ人が入り込んで来るように、罪が入り込んで来た。死が入り込んで来た。そして、罪が、死が人間の主人のようになってしまった。そんな感じです。自分は自分の人生の主人であると思っている。けれどもその実、罪が、死が、わたしの主人となっている。それがわたしたち人間の現実である、ということです。
キリストの型
それに対して、第二に、キリストの型ということが言われています(15)。イエス・キリストお「一人」が完全な生活を送り、罪を償うために命を捨てて下さったが故に、このキリストを信じることを通して、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられるという契約を結んで下さった。その契約を通して、キリストを信じる信仰によってごっそりと芋づる式に「義とされる」のであるとパウロは言っている、ということです。
キリスト者の自由
このような、アダムの型とキリストの型ということが言われている中で、わたしたちは、そのことに対して、どのように向かい合って行ったらよいのでしょうか。罪と死の支配下にいるかぎり、わたしたちは罪と死の奴隷以外にありませんでした。けれども、キリストの支配の下にはいるとき、わたしがその人生の主人となることができるのです。日々、キリストの十字架によって罪赦されて、神様のみこころに生きることを選び取ることができる者とされるのです。ルターが言ったように、「すべてのものの上に立つ自由な主人」とされ、そして、その自由を「仕える僕」として用いる者とされるのです。
(前川隆一牧師)