わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。               ローマ7章24節
 
パウロが自分の罪の問題に深く葛藤している箇所です。

理想に生きる
まず、16節。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものと認めているわけになります」。クリスチャン、それは第一に、神の律法、神様のみこころ、それは善いものだと認めて、その理想に生きようとする存在であるということです。

現実に生きる
ところが、22節~23節。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。そして、最初に触れた24節、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」というパウロの叫びへと続いています。クリスチャン、それは、理想に生きようとする存在です。と同時に、それは、雲の上で生きるような生活ではなく、現実を生きる。だれよりも、しっかりと現実に根差して生きる。それが、クリスチャンの歩みであるということです。パウロの「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」という叫び、それは、いのちに導くべき律法が罪を自覚させるのには力があっても、その罪の力から解き放ってくれない、というところから来る叫びでした。

キリストとの出会いに生きる
第三に、もう一度、24節の後半、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。そして、25節、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と続いています。パウロは、「何が」とは言わないで、「だれが」と言いました。日々、キリストとの出会いに生きる生活、歩み、それがわたしたちの信仰生活です。わたしたちは、日々、キリストと出会う。その上で、人々と出会って行くようにと招かれているのです。

(前川隆一牧師)