わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

                           ローマ8章25節
 
「将来の希望」と表題のつけられている部分です。

うめきをともにする
今日の箇所を読んで、まず心に留まるのは、「うめき」ということばです。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(22)。先週学んだローマ書の7章では、人間の罪のうめきということが語られていました。そして、更に言うなら、今日の箇所のすぐ後のところですが、神の霊、聖霊が、わたしたちのためにうめいて下さっているということが語られています(26)。そのように、今日の箇所は、「うめき」ということが響き合っているところです。わたしたちは、キリストにあって、「うめきをともにする」ことができる者とされています。キリストにあって、そのままで、その存在を通して、「慰めの器」「励ましの器」とされているのです。

望みに生きる
もう一つ覚えたいこと、それは、わたしたちクリスチャンのモード、それは、「望み」というモードである、ということです(25)。20節で、「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています」と言われています。これは、ちょうど、ジャンプをする寸前に、腰を低くするように、被造物全体が虚無に服した、それは、そのこと自体が目的ではなく、「神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」望みに基づいて一時服しているのである、ということがここで言われているのです。現在の苦しみ、それは、そのこと自体が目的ではなく、将来の希望、救いに向かって、腰を低くさせられる、それが、現在の苦しみである、ということです。

ちょうど、潮の満ち引きによって、海が多くの生き物を育むものとなっているように、わたしたちも、うめきをともにすることと望みに生きること、その二つの間を往復することによって、生き生きとした信仰に歩むことができるのです。

(前川隆一牧師)