わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 ローマ9章3節
イスラエル民族に関わる神様の救いの歴史が論じられている11章までの箇所の最初の部分です。
肉薄する祈り
パウロは、神の祝福も栄光も約束もそれを本来受け継ぐべきユダヤ人、イスラエル人が、祝福の外に置かれている。そのことに対して、身を割かれるような苦しみを味わっていました(1~3)。神様、あなたの救いはどこにあるのですか。神様、どうして、あなたはあなたがお選びになったわたしの血族を、こんなにも頑なにされるのですか。神様、それでも、あなたは神様ですか。そう言わんばかりの叫び、それが、ここでパウロが叫んでいる叫びであるということです。わたしたちは、神様に対して、このような自分の思いをぶつける祈りを祈ることができるのです。
十字架を負う
第二に、3節を、もう一度注目したいと思います。この3節のことばは、旧約聖書のモーセのことばと響き合っています(出エジプト32:32)。そして、このモーセのことば、そして、パウロのことばが指し示しているもの、それは、言うまでもなく、キリストの犠牲の愛、十字架の愛です。逆に言えば、イエス様は、「十字架を負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。そのようなイエス様の招きに応える生き方をした、それが、モーセであり、パウロでありました。
賛美
「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」(5b)。第三に、わたしたちが招かれている、それは、賛美へと招かれているということです。「それでも、あなたは神様ですか」という祈りと神を賛美するということとは、一見調和しないように思えます。けれども、それは一つのことなのです。わたしたちは、神様に感謝し、神様への賛美に至るとともに、試練の中、困難な状況の中、それはもう自分の手に余ることですから、自分を越えたお方、神様を見上げ、神様に明け渡すしかないところへと追いやられるのです。
(前川隆一牧師)