わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

                            ローマ14章8節
 
「兄弟を裁いてはならない」と表題のつけられている部分、そして、「兄弟を罪に誘ってはならない」と表題のつけられている部分の途中までです。

信仰の弱い人を受け入れなさい
今日の箇所で、目に留まるのは、8節のみことばです。けれども、ここで、「わたしは、キリストを信じ、人生の大転換を経験して、今、キリストのために生きている」といったドラマチックなあかしが語られているのかと言うとそうではなく、非常に日常的な生活の中で、「受け入れ合うように」ということが語られています。「信仰の弱い人を受け入れなさい」ということと、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」ということとがどのように関わって来るのでしょうか。

生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ
もう一つのこと、それは、この8節のみことばそれ自体をどう受け留めるのか、ということです。このみことばを真剣に受け留めようとするとき、いったいどれほどの人が、「わたしは、このみことばのように生きている」と、胸を張って言うことができるでしょうか。

主となるために十字架で死なれたキリスト
その鍵は、9節のみことばです。キリストが十字架で死に、復活された、それは、すべての人の主となられるためだった、ということが言われています。それにもかかわらず、クリスチャンであるわたしたちが、「いやいや自分は自分のために生き、自分のために死のうとしている」と言うなら、それは逆に、キリストの恵みを否定することになってしまうのです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」、それは、イエスを主として歩むということです。そして、救いに関する以外のことは、その人と神様との関係のこととして受け入れ合って行く、そのように、わたしたちは召されているということです。わたしたちの信仰の歩み、それは、わたしではなく、キリストが大きくなって下さる歩みです。

(前川隆一牧師)